制作者から見た、展示空間における〈芸術・芸術家・芸術作品+鑑賞者〉の存在論的美学の可能性

[紹介論文] 梶谷 令「展示空間における作者・鑑賞者の相関と分類に関する試論的考察―ハイデッガー著『芸術作品の根源』に基づく仮借的存在論を手掛かりとして― 」多摩美術研究第6号(2017)pp.13-39

[論文URL] http://id.nii.ac.jp/1305/00000946/

著者解説
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①研究の前提-制作者による、展示空間を舞台とした存在論の展開を目指して-
美術作品の制作者にとって、今日、画廊・美術館を中心とする展示空間は切っても切れない関係にあります。本研究の目的は、故郷喪失を基本的単位とする展示空間との身近なかかわりの中で、〈展示空間とそこにおける作品・作者・鑑賞者〉を基礎的視界に、制作・展示実践を交えた〈展示空間における〉存在論(*)の展開可能性を試論することです。この過程で存在論(的美学)+近代主観主義美学の歩みを相互に参照し、今日に至るまで様々な学問的接近を喫した哲学者・美学者・芸術家各自の思索が交差する言語的次元を、制作と思索を通じて描出します。この試みは、一見無関係のように見える学術と芸術の交差点(crossroads)に立ち、その応用可能性を展示空間において作品・作者・鑑賞者と共に確認する、いわば共同作業でもあります。最終的な成果は博士論文として発表予定(2019)。
ハイデッガーの講演『芸術作品の根源』が主な参照軸。本書の骨子である〈芸術・芸術家・芸術作品〉は、狭義の近代主観主義美学〈作品・作者・鑑賞者〉とにわかに体系を重ねます。「作者」は両者に登場する一般的な概念です。この制作者の歴史的布置を最大限に活用して、新しい切り口からの接近を試みた最初のテキストが、本概説で触れる処女論文(2016,但し出版年度は2017)であります。

『多摩美術研究 第6号(Tama Art Studies, 2017)』

②論文の概要
昨今、画廊を初めとする室内空間での展示に、作者が常駐する場合が珍しくありません。本稿は、常駐が作品・鑑賞者・作者に与える影響を制作者の立場から確かめ、作者・鑑賞者の分析を試みます。その手掛かりをハイデッガーの著作『芸術作品の根源』及び各種展示実践に求めます。
展示は作品のみならず、作者も社会的認知を得る機会であり、例えば対話が積極的に活用されますが、展示空間での対話は、ことの次第では展示営為の形骸化を誘発します。ではどうすれば、形骸化を避けつつ各位相を確保可能か。制作に携わる者として、現場に配慮しつつ作品・作者・鑑賞者の位相を整理・再配置します。

図1『芸術作品の根源』における芸術・芸術家・芸術作品の基礎的布置と相関
(Der Kuenstler ist der Ursprung des Werkes. Das Werk ist der Ursprung des Kuenstlers.)

 先ず、『芸術作品の根源』における芸術・芸術家・芸術作品の基礎的枠組みを把握します(図1)(1)
図1の循環Kreisgangが示す意味は二つ。一つは芸術(芸術作品・芸術家を含む)の多様性・多義性ゆえの柔軟な循環。二つ目は、第一のものである芸術(とこれを頂点とする各項目)の堂々巡りに由来する解釈学的循環(図1は一元把握に由来する芸術Kunstの静的了解を含意しません)。
ハイデッガー的存在論では、現に既に了解されている現実の〈更なる堂々巡り〉が積極的に評価されます。彼は芸術作品の根源を問うことが、芸術の本質Wesenへの問いに繋がると考えます。芸術家・芸術作品の由来Herkunftが芸術(根源Ursprung)ではなく、芸術・芸術家の〈本質の由来〉が根源です。芸術作品はそれ自体が、真理の性起する〈出来事〉であり、近代主観主義美学におけるような対象からではなく〈存在の現れ〉から把握されます。
さて、図1(ハイデッガー的存在論の枠組み)には鑑賞者が見当たりません(2)。受容者中心の分析に注力した近代主観主義美学の克服の結果、芸術・芸術家・芸術作品に続くはずの、鑑賞者は排除されます。ここでハイデッガーは、鑑賞者に代わる新しい概念装置を布置します。ハイデッガーによれば、芸術作品は〈見守る者たちdie Bewahrenden〉を常に必要します。状況如何にかかわらず作品が放置される場合も、見守る者はその存在を待ち受けて(待機して)います。本稿は、見守る者たちを、既存の鑑賞者に代わる存在として布置します。
鑑賞者の追加によって作品の出来高や偉大さを他所に、あらゆる作品と鑑賞を巡る未踏の関係性を試論可能になります(3)。ここで図 1を基礎に、見守る者たちを仮借した鑑賞者と、近代主観主義美学に親和的な鑑賞者の追記を以って、更なる図式展開を試みます。判別のため、追記部分を色別に図示します(図 2参照)(4)。この比較検討は、各自の歩んだ狭義の芸術過程を歴史的に遡行するねらいを持ちます。
ここでは詳細を割愛しますが、鑑賞者の美的直観並びに作品の〈存在の仕方〉を簡潔に把握するために、同時代の哲学者ニコライ・ハルトマン(Nicolai Hartmann,1882-1950)提唱の、芸術に関する層構造モデルを接続しています(5)

図2〈図 1+鑑賞者〉(以下、図は全て試論段階のもの)

鑑賞者の追加によって、展示空間においてハイデッガーを中心とする存在論的美学を試論する準備が整います。
そのさい、鑑賞者を、便宜的に作者を主題とする〈作者本位〉、作品を主題とする〈作品本位〉の二通りに分類し、前者に非本来的な在り方を、後者に純粋にそれ自体の内に立つことの実践者足る、見守る者たちdie Bewahrendenを踏襲させます(図3図4参照)。本来ハイデッガーは見守る者たちを近代的な鑑賞者に対峙させますが、本稿では対立を止揚する装置として再配置します。

図3 制作者本位:青で彩色された部分が作者本位。近代主観主義美学の病理を踏襲します。作者(芸術家)との対話に徹して(人間主体の現実における)閉鎖関係を展開。また芸術作品の〈芸術〉側面を捨象し〈作品〉という一面的事態に埋没します。

図4 作品本位:ハイデッガー的身体性を伴う。制作者本位(図 3)との比較から、作品本位に連動する有機的連関構造の規模的差異が視認できます。

 以上の2モデルを足掛かりに、画廊を中心とした小規模な展示空間と、そこににおける作品・作者・鑑賞者の4つを巡る影響関係や存在の位相を、幾つかの展示実践(室内・室外/個展・2人展・グループ展)を通じて確認します。この過程で展示空間の基本機能―壁・額・照明等の前後関係を考察し、作品を機能という存在性格から配慮する展示空間の構造を分析します。以上を通じて、広範な適応可能性と柔軟性を併せ持った〈作品が作品として配慮される最初の空間(Exhibition space as the first place where the work is considered as an artwork)〉の今日的な可能性を、鑑賞者と共に探ります。
この時、展示空間では作品や鑑賞者・作者の全てが、本研究の当事者、或いは根拠として躍動します。

  1.  この枠組みは星敏雄氏の「芸術と芸術作品と芸術家の三角形(と一応恣意的にだが私的に命名しておくもの)」(1999)をはじめとして、既に言及された図式であることを断っておきます。星敏雄「ハイデッガーにおけるKunstの概念: 『芸術作品の根源』解読」二松學舍大學論集 第42号、1999.[https://nishogakusha.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=605&item_no=1&page_id=13&block_id=21、参照5,30(2016)] p.16,p.17,p18参照
    直近では前田綾香氏の言及(2005)がある。「ハイデガーは他の美学者などとは立場を異にし、芸術と芸術家、芸術作品が同じ円周の上にあることを認め、いずれかに限定して留まることは避けている。三つを循環することKreisgangによって、それらをより根源的に問おうと試みているのである。」前田綾香「芸術作品における真理の生起:『芸術作品の根源』におけるハイデガーの芸術哲学」上智哲学誌 第17号、2005年3月31日刊行.
    [http://repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/handle/123456789/121、参照 9,30(2016)] p.58 参照
  2. 星氏が読者(受容者)と表現するのが、本研究でいう鑑賞者に該当。「作者と作品(テクスト)と読者(受容者)という三角形は念頭にない。代わりにあるのは読者の代わりに芸術である。作者と作品と芸術の三角形である。」星、前掲論文 p.18参照
  3.  「作品の出来高や偉大さを他所に」する理由の一つは、本研究が作品や鑑賞者のレベルの主観的決定と無縁だからです。レベルを想定した立ち回りは忌避され、端的に現象を参照します。
  4. 鑑賞者の追加は、超克対象である近代主観主義美学への回帰を意図しません。
  5.  ニコライ・ハルトマン(福田敬 訳)『美学』(作品社 2001年)

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